見渡す限り真っ暗な空間に私は一人で立ち尽くしている。静寂だけが自分を包み込んでいた。不思議と恐怖や焦燥は無い。 けれど私は知っている。このままここに居続けることは出来ないと。 寂しいという感情にも似てるのかもしれない、胸にぽかりと穴が開いているような感覚を覚えながら、私はきょろきょろと周りを見渡した。 「 」 唇を動かして誰かの名を呼ぶ。捜すように、縋るように。だけどそれは声にならず、何処にも響かず闇に溶けた。もう一度私はその名を呼ぼうとして口を開き、――そして閉じる。
俯いた私を掠めるように、 ひらり、一匹の白い蝶が何処からか舞い降りた。こわい、と思った。だけど同時に、会いたかった、と思った。その蝶は茫然と立ち尽くす私の周りを何度か誘うように飛び回ったあと、身を翻して暗闇に向かって飛んでいってしまう。私は反射的に地を蹴ってその蝶を追いかける。
何故私はこんなにも必死に追いかけてるんだろう。分からないまま私は必死に見失わないようその白い後ろ姿を追いかける。足がどんどん重くなる。距離がどんどん開いていく。 行かないで、私は叫ぶように願う。 こわいのに、近づいてはいけないと頭では分かっているのに。 行かないで、私から離れていってしまわないで 、 「 !」 私は先程よりももっと喉から絞り出すようにその名を呼ぶ。すると視線の先にいたその白い蝶はひらりと身を揺らしながら布のように広がり、翻り、白装束の姿を形作った。 立ち止まった彼は私の目をまっすぐに見つめがらゆっくりと口を開き、 私の名を呼ぶ。 あぁ 、私はこのひとのことが 。
ゆっくりと瞼を上げた途端に眩しい光が視界いっぱいに広がって、私は思わず目を細める。徐々に光に目を慣れさせながら周囲を確認するとそこは職務室だった。私が寝そべっているのはその部屋の片隅に置かれているソファで、どうやら私はいつの間にか眠ってしまっていたようだ。
ここのところ忙しくてろくに寝食も取っていなくて、さすがに眩暈がしてきたのでちょっと休憩しようと横になったまま、どうやら深い眠りに落ちてしまったらしい。先程まで何か夢を見ていた気がするけど思い出せない。何か大切なものだったような気がするけど。 ふぅ、と息を吐き出して身を起こしながら目を擦る。すると指に冷たいものが触れて、私はそこでよくやく自分が泣いていたのだということを知った。
眠りながら泣いてしまったんだろうか、そうぼんやりと考えていたら、独特な気配がして勢いよくその方向を仰ぎ見ると、いつからそこにいたのだろうか、いつもの胡散臭い笑みを携えてその男が立っていた。
「おはよ、チャン」
「 ……いち、まる 隊長、」
何時の間にこんなすぐ傍まで来ていたのだろう。それとも私が目を覚ます前からいたのだろうか。誰かの霊圧なんて全然気がつかなかった。この男の独特な冷たくまとわりつくような霊圧はすぐさま分かる筈なのに。私はこっそり唇を噛む。――会いたくなかった。 この人にだけは。 そんな
私の胸中を見破ってか、「相変わらずつれへんね、チャン」と市丸隊長は微笑みながら肩をすくめる。そんな彼から目を離せないでいると、彼はふとその細い腕を持ち上げ、私の方へと手を伸ばした。
「可哀想になァ」
普段より幾分か柔らかい声が響くと共に、その細くて長い指は私の頬に触れ、親指が私の目尻に溜まった涙をゆっくりと拭った。その骨ばった、他人より少し低い体温、だけどあたたかい人肌の温度を感じた瞬間に私は、どうしようもなく、 どうしようもなく泣き出してしまいそうになって、 私は反射的にその手をパシンと鋭い音と共に払いのけて、急いで立ち上がった。そしてそのまま部屋から出ようと駆け出した瞬間――後ろから腕を掴まれて引きとめられた。
「 なんで逃げるん?」
「 ……離して ください、」
市丸隊長から投げかけられた疑問には答えず、絞り出したような弱々しい声で拒絶の言葉だけを吐く。すると私の腕を掴む彼の手の力がまたひとつ強くなった。まるで嫌だとでもいうように。私は唇を強く噛む。 彼の顔を見ることも出来ずに、ただ俯いたまま、涙が零れ落ちてしまわないように堪えるのに必死だった。なんで私は彼の姿を見ただけでこんなにも泣きそうになるんだろう。 なんで、 なんで。
「……市丸隊長こそ、どうして私のこと放っておいてくれないんですか」
「 ……キミがボクのこと呼んだんやないの」
「 え ?」
「さっき。 寝言で、市丸隊長ーゆうて」
しまった、と思った。そして同時に、先程まで見ていた夢のなかでの感情が突如胸のなかに戻ってきたような感覚に襲われた。寂しい、そして、こわい。この人に近づいてはいけないと頭の中で警鐘が鳴る。だけどすごく会いたかった。夢のなかで必死に追った背中は、この人のものだった。力が抜けてずるずるとその場にしゃがみ込む。地に座り込んで俯いていると、私の腕を掴んだままの市丸隊長は、私と目線を合わせるように自らもしゃがみ込み、私の顔を覗き込む。そしてそのまま唇を私の頬のすぐ横に寄せて、耳元で囁いた。
「 嘘やけど 」
「 …っ!!!」
反射的に顔を上げれば、私の目を覗き込んだまま市丸隊長は楽しそうに口端をニヤリと上げた。細い目から覗く彼のビー玉みたいな綺麗な瞳が、私だけをまっすぐに捉えている。しまった、と思ってみてももう遅い。私の心は既に彼の掌の上だ。罠にかかって、どう足掻いてももう抜け出すことは出来ない。底無し沼のようなこの男に、私は既に堕ちてしまったから。
彼に掴まれていない方の手を、ぎゅうううと爪が喰い込むほど拳を強く握る。それを横目でちらりと確認した市丸隊長は、心底楽しそうに口端を歪めた。彼は私の腕を掴んだ手を私の掌まで移動させ、私の手の甲や指の一本一本を確かめるようにゆっくりとなぞった。そしてその手を自らの口許の位置まで持ち上げて、私の手の甲に、わざと音を立てるように、ちゅ、と口づけた。そしてその体勢のまま私を見据え、ニヤリと笑う。
「捕まえた」
ずっと待っとったんやで? 少し柔らかい響きで彼が呟く。私の瞳を覗き込むその目が幾分か優しくて、私はもう堪えることが出来ずにぽろぽろと涙を零していた。その様子を見て、市丸隊長は少し困ったように呆れたように微笑みながら、ぐいっと私の肩を抱いて自分のもとへと引き寄せた。そして宥めるように、ぽんぽん、と背中を擦られる。白装束越しに伝わる体温に身を委ねながら、私はそれに応えるように彼の背中に腕を回す。そしてその背中の布をぎゅううと握りしめた。まるで行かないでと縋るように。 ずっときっと、ほんとうはこうしたかった。くすり、頭上で市丸隊長が笑った気配。 「もう逃がさへんよ」 耳元を掠める彼の低くて通る声がまるで麻薬のように身体中に浸透していく。彼は私の目をまっすぐに見つめがらゆっくりと口を開き、 と私の名を優しく呼ぶ。 あぁ 、やっぱり私はこのひとのことが、どうしようもなく 。