さぁ、と静かに降る雨が頬を濡らす。アスファルトを叩きつける、というよりも、しとしとと染み込んでいく、といった表現の方が似合うくらいの霧雨。しかし霧雨といっても先程よりも少しずつ雨脚が強まっている気がする。今日は眼鏡をかけてこなくて良かったと濡れた睫毛を擦りながら、そのどんよりと曇った黒い空を見上げた瞬間、視界一面に紺色が覆った。その紺色に広がるのは金属の骨組み。
「傘を忘れたのか」
見上げた体勢のまま後方へと視線を移すと、今度はその声の持ち主である彼が身に纏う制服の白いシャツが視界に広がる。ありがとう、と告げると、 風邪を引くぞ、という、少々呆れているような声が返ってくる。じぇんとるまんだね柳、柳生みたいだよ。そう言うと、褒め言葉として受け取っておこう、と彼は微笑んだ。 あ、 綺麗。 彼の背景には しとしとしとしと 雨が降る。 ああ このひとは本当に、
「柳は雨が似合うね」
「……はいつも唐突だな」
ふ、と柳の纏う空気が緩んだ。たぶん笑ったんだと思う。その表情に目を惹きつけられる。 柳は傘の柄を持っているのとは逆の方の腕を 静かに動かす。私とは対照的に乾いている制服から伸びる腕が、私の方へと伸ばされる。 その伸びた腕が、 ゆっくりと私のおでこに貼り付いた濡れた前髪を剥がすように、 触れた。 まるでスローモーションのようなその光景を、私はただ、ぼんやりと見ている。 そしてその指先が持つあたたかい人肌の温度を感じた瞬間に、 すべての感覚が早送りで自らの身体に戻ってきたように かぁっとあつくなって、 反射的に、まるで柳の手から逃げるように一歩下がって後ずさりしていた。
柳の傘から抜け出すような形になり、私の頭上には途端に雨がぱらつく。柳は私の髪に触れていた手が対象物を失って急に手持ち無沙汰になり、その腕を宙に浮かせたまま、少し驚いたようにじっと私の目を見つめた。柳のその目は私の体温をさらに上昇させる。肌をうつ雨は冷たい筈なのに、身体のなかは妙にあつい。
「俺に触れられるのは困るか」
「 こ、 まらない けど、」
心臓が壊れてしまうと、本気で思った。 ばかばかばか。頼むからそんな柔らかい目で私を見ないで。そう思うも柳には伝わらない。 その代わりに彼は宙に浮いていた自分の腕をゆっくりと下ろして、そしてもう片方の手で持っていた傘を、腕をまっすぐ突き出すようにして私の頭上へと差し出した。二人の微妙な距離感はそのままに、再び私は雨の世界から切り離される。ぽつぽつぽつ、さっきまで聞こえなかった、雨が傘に当たる音。独特の雨の匂いが鼻を掠めて、私の代わりに今度は柳が雨に濡れる。髪から滴り落ちたしずくが、顎の輪郭を辿る。 ほら、やっぱり雨、似合うよ。声にはせずにそっと心の中で呟く。 今度は私が彼に触れてもいいだろうか。そんなふうに思った自分に驚いた。ねぇ柳、これはなんのはじまり?
「……柳、私のこと唐突だって言ったけど、柳のほうが唐突だよ」
柳が濡れてはいけないと、一歩踏み出し距離を縮める。柳も私の動きに合わせて傘を自分のものとへと僅かに引き寄せる。しとしとしと、世界の外では雨が降る。 それではついでに唐突なことを言ってもいいか。 柳は私の目をまっすぐに見つめる。しとしとしと、柳の背後では、雨が降る。
「好きだ」
Le ralenti
ス ロ ウ ・ モ ー シ ョ ン
(title by 橙の庭 / 数年前にいつこちゃんに捧げた柳盛り合わせより抜粋)